もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 ローマ8・25
この真理を正しく教えることはできても、学ぶことはすぐにはできません。正しくのべ伝えることはできても、信じることはなかなかです。よく忠告することはできても、容易に従いえません。言うのはやさしいのですが、実行は困難です。この世に、祝福された希望と、きたるべき永遠の国と、その嗣業を待ち望みつつ、そうした確信をもって、この地上の生活にはあまり関係しない生活を送る人はほとんどいないからです。この過ぎゆく世を、盲人のように色めがねをかけて見、それに反して、永遠の生命を明らかに開かれた目で見る人はほとんどいません。悲しいことには祝福された希望と天の嗣業は、みなあまりにしばしば忘れられ、そのかわり、過ぎゆくこの世と地上の移り変わる世界はあまりによくおぼえられすぎます。この移り変わる世は、たえずわたしたちの目の前にあります。わたしたちはそれについて考え、それについて心配し、それを喜びます。しかし、永遠の生命には背を向けております。昼も夜もわたしたちはこの地上の生活を追い求めております。しかし永遠の生命は風に吹き飛ばしてしまうのです。
しかしこのような状態は、キリスト者にとって正しい状態ではありません。むしろ反対の態度をとらなければならないのです。キリスト者はこの一時の生涯を、閉じるか、またたきをする目で見、未来の永遠の生活を、輝く光のもとに大きく開いた目で見なければなりません。この地上の生活のためには左手だけで十分です。右手と、魂と、全精神は、きたるべき世、すなわち、天にあり、確かな希望と喜びの心をもっていつもそれを待ち望まなければなりません。
1531年の説教から