あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。 第1コリント6・11
わたしたちがキリストの苦しみときよさにあずかって、わたしたちが受けるこのきよさを讃美するとき、わたしたちは自分にほまれを帰すのでなく、キリストに帰すのです。
わたし自身が罪人であると認めるのは、わたし自身に関するかぎり真理です。しかし、キリストにある信仰によって、わたしはもはやアダムの子ではなく神の子でありますから、まったく聖なる者となっています。ここにすばらしい区別がなされています。わたしが人であり、アダムの子であるかぎり、わたしはよみのものです。もしわたしが自己流の敬虔さと、厳格さと、熱烈な信仰ぶりと、よいわざを持っており、それにたよろうとするなら、わたしは罪に定められ、滅びなければなりません。
しかしもし、あなたがたの罪のために死に、救いのためによみがえられたキリストによって、あなたがたがキリストの兄弟、また、神の子とされたことを信じ、その信仰をもって洗礼を受けるならば、次のように言うことができます。わたしがこの兄弟としての交わりに属しでいるかぎりは、もはやアダムの子でも、罪人でもない。そして、もしあなたがたがこの真理について大胆不敵になれるなら、そうしなさい。わたしは今もなおこの問題について学びつつあります。それは罪人が、わたしは天国でペテロの次にすわると言うのは、なかなかやさしいことではないからです。しかしそれでも、わたしたちはこのきよさをたたえ、栄光を帰さねばなりません。これのみが金色の兄弟の交わりです。
1530年の説教から