このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。 第一コリント4・1
パウロはここで、「わたしたちは神の知恵の管理者である」とか、「神の義の管理者である」などと、言うこともできました。しかしそのような表現では、その一面を語ることにしかならないのです。ですから、キリストのうちに提供されているすべてを含むため、「奥義」というひと言を用いているのです。彼は、ちょうどこのように言いたかったのでしょう。「わたしたちは霊の管理者であり、神の恵みと神の真理をわかち与えてゆく。いったいだれが神のはかりしれないすべての徳を数えつくすことができようか。そこでわたしはこれらすべてをひと言に含めて、神の奥義と言おう。それは信仰のみによって得ることができるから、奥義と呼び、かくされたものと呼ぶのである」
神の奥義は神の与えてくださるかくされたものであり、それらは神ご自身のうちに存在しているものです。しかし、悪魔も又奥義を持っております。黙示録17・5に、「その額には、一つの名がしるされていた、それは奥義であって、大いなるパピロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」といわれているとおりです。悪魔はその教えとわざが天国へ導くかのごとくみせかけます。しかし実際は、それを信じるすべての人に死とよみ以外のなにも与えません。これに反して、神の奥義はいのちと祝福を含んでおります。
こうして、これらのことばによって、パウロがキリストのしもべを神の奥義の管理者とみていたことがわかります。すなわち、彼は自らを、キリストとキリストに属することだけを神の民にのべ伝える者と考え、また、他の人にもそのように認められていました。キリストのみが、わたしたちの生命、道、知恵、力、目標、祝福であり、キリストがなければわたしたちは死、まよい、愚か、無力、恥、のろい以外の何物でもないのです。そして、それ以外のものをのべ伝えるものは、神の奥義の管理者としてはみなされないのです。
降臨節第3主日の説教