まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。 イザヤ53・4
実にこれは明白で、力強いことばです。この王の悩みはわたしたちの悲しみであり、嘆きであったのです。主は、永遠にわたしたちのものであるべきはずであった重荷を負ってくださいました。わたしたちがむち打たれ、くだかれ、うえとかわきを体験し、永遠に死ななければならなかったのに、これらすべては主の上におかれました。主の苦しみはわたしのため、あなたがたのため、わたしたちすべてのもののためです。わたしたちの益となるために苦しんでくださったからです。しかし、わたしたちは、主が神によって苦しめられ打ちたたかれたのだと思いました。
それはほんとうです。モーセも、「木にかけられるものはのろわれる」と言っております。ですから主は罪に定められ、のろわれたものとして侮辱されたのでした。主はご自分を助けることすらできない、ではどうして他の人々を助けることができるだろうか。このような考えは正しくありませんでした。それは主がわたしたちの悲しみをになっておられるからです。表面的に見ただけでは、主はのろわれているようにみえます。しかし、霊によれば、わたしの悲しみ、あなたがたの悲しみ、わたしたちすべての悲しみをになわれているのです。「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。主は懲らしめをうけて、われわれは平安を与えられました。わたしも、あなたも、全人類は神の怒りを招きました。ところが主は、わたしたちが罪からあがなわれて平和のうちにいこうようにと贖罪のわざをなしとげてくださったのです。主は苦しまねばなりませんでした。そして、わたしたちは自由になります。
わたしたちはこの大きな愛とあわれみを忘れるほど恥知らずとなってはなりません。
1531年の説教から