御霊の実は、喜びである。 ガラテヤ5・22
このみことばから、神はわたしたちが悲しんでいることを望まれず、わたしたちを悩ます悲しい思いや、ことばや、教義を憎まれることがわかります。主はわたしたちの心を喜びに満たされます。主がみ子をわたしたちにたまわったのは、わたしたちを悲しませるためではなく、喜ばせるためであるからです。それゆえにこそ、預言者たち、使徒たち、そして、主キリストご自身が、わたしたちに、いつも喜んでいなさい、元気でいなさいとすすめ、また命令されたのでした。
「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ」(ゼカリヤ9・9)。 詩篇の多くの個所にも、「主にあって喜べ」と言われています。パウロはピリピ人への手紙に、「主にあっていつも喜びなさい」(4・4)と言っています。そしてキリストも、「あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10・20)とおっしゃいました。この御霊の喜びがあるところでは、キリストにある信仰により心に喜びがあふれます。そして、わたしたちは主がわたしたちの救い主であり、大祭司であることを確信します。そして、この喜びはわたしたちのことばと行為のうちに現われます。
ヨナ書註解