わたしは日日死んでいる。 第一コリント15・31
「わたしは日日死んでいる」というこのことばは、何と奇妙に響くことでしょうか。わたしはあなたがたが墓に運ばれて行くのを、かつて見たことがあるでしょうか。わたしはあなたがたが歩き、立ち、静かにし、食し、飲み、出かけて行き、説教し、商売に従事しているのを見ます。それを死につつあるとか、死んでいるとか言うのでしょうか。パウロが意味すること、あるいはこの死につつあるというのは何か、どのようにしてそれがやってくるのかについては、だれも知らないし、理解していません。彼はいつもその首の上に死をにない、絶え間なくそれに苦しめられているので、生よりも死を深く感じているのです。しかし同時に彼は、ただそれをぼんやり感じるだけであり、ある場合には全く何も感じないとしても、永遠の生命のほまれと栄光を持っていると言うのです。このように、生と死、罪と神聖、善き良心と悪しき良心、喜びと悲しみ、希望と恐れ、信仰と懐疑つまり神と悪魔、天国と地獄との間には、絶え間のない奮闘と努力があります。
パウロがここで言っているのは、この奮闘のことです。それは彼だけが十分に理解できたことでした。なぜなら彼は偉大な使徒であって、絶えず戦いに臨んでいたからです。それぞれその中にあってよく実行しました。それゆえに、他の者たちがそれを感ぜず、それを理解しなくても、わたしたちは彼が真理を語っていることを信じなければならないと、彼は主張しているのです。
1532年の説教から