イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムヘ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう」 ルカ18・31
キリストの苦しみを正しく知る方法は、受難の事実を認め理解するだけでなく、どのような心で苦しまれたかを知ることです。その心を見ないでキリストの苦しみを見る人は、喜びよりも恐怖に満たされます。しかし、その苦しみの中での心を正しく見るならば、キリストにあるまことの慰めと、信頼と、喜びを与えられます。
主が十字架にかけられるためにエルサレムに上ってゆくと言われる時、この聖句の中に苦しみに対する主の心の態度が啓示されています。キリストはちょうどこのようにおっしゃっているようです。わたしの心を見なさい。わたしが、父のみこころに従順に、喜び進んで苦しみに耐えようとする態度を見なさい。それによって、あなたがたがわたしの苦しみを見た時、おそれおののいて、わたしがいやいやそれを耐えていると思わないためである。また、わたしが無理じいにそれを負わされ、捨てられ、ユダヤ人がそうする力があったと思わないためである。
しかし、弟子たちはこのことばの意味がわからず、みことばは彼らにかくされていました。このことは、福音がわたしたちに人の子がなぜ十字架につけられなければならないかを説明しても、理性と、肉と、血は理解することも把握することもできないことを示しています。ましてや、それが主のみこころであって、喜んで苦しまれたことなど認めることができないのです。聖書が成就するため、すなわち、わたしたちの益となるために、人の子が喜び進んで十字架につけられたということはたしかにおどろくべき偉大なことです。それは今なお、そして、いつまでも不思議であります。
1525年の説教から