その知恵ははかりがたい。 イザヤ40・28
信じているすべてのことが隠され、見えないのでなければ、信仰ということはできません。見ているものは、信じる必要がないからです。しかも外見がばかげて見える時ほど深く隠されていることはありません。信仰がかくあるべしと示しているのと正反対のものを見、認め、理解するのです。神はすべてのわざにおいてこのように働かれます。主がわたしたちを命に入れようとされるとき、まず死に至らせられます。主がわたしたちを聖徒にしようとされるとき、まず、わたしたちの良心をうって、罪人とされます。主がわたしたちを天に引き上げようとされるとき、まず、わたしたちをよみに投げ込まれます。「主は殺し、また生かし、よみにくだし、また上げられる」と聖書に言われているとおりです(サムエル上2・6)。
このようにして、神は永遠の怒りの下に、永遠の言いあらわすことのできないいつくしみとあわれみを隠しておられます。また、不義の下に義を隠しておられます。神がほんの少しの魂しか祝福されていないけれども、最高のあわれみに富まれたかたであることを信じ、ある人たちを罪に定められる神が最高の正義の神にほかならないということを信じるところに、最高最大の信仰があります。
神がきびしい怒りと不正を示しておられるときに、理性によって神がいかに、いつくしみ深く、あわれみ深く、正しいかたであるかをわたしたちが理解することができたら、はたして信仰は必要でしょうか。しかし、理性は理解することができないので、信仰が存在し、これらの真理がのべ伝えられるとき、あなたがたは信仰を働かせることができるのです。
奴隷的意志