わたしを見た者は、父を見たのである。 ヨハネ14・9
まず、あなたはキリストに尋ね、キリストとともにとどまり、キリストにすがりつきなさい。あなたの思いや理性、あるいは、だれか他の人が、あなたをほかのどこかへ連れてゆこうとするならば、目を閉じてこう言いなさい、わたしは、わたしの主キリストのほかにどんな神も知ろうと望まないし、また、知るべきでない、と。キリストが父なる神からつかわされたのなら、みむねによって、わたしたちのためになしてくださり、語ってくださるなにか偉大なものをもっていらっしゃるのはたしかです。ですから、わたしたちは、主ご自身を至高者として耳を傾けるべきです。では、どのようなことばを聞きますか。それは、キリストが世を救うためにこられ、父なる神にわたしたちを和解させるためにおいでになったという、よきおとずれにほかなりません。
では、キリストのみわざはどうでしょうか。それは、宣教と、受難と、その究極の十字架上の死です。ごらんなさい。ここに、父のみこころと、みむねと、みわざが示されており、完全に主を認め、知るのです。それ以外では、どんなに高く思いをめぐらしても、人間の知恵と思案によっては、この真理に達することも、見ることもできないのです。
もし、キリストにあって示されている明らかな知識を捨て、自分で、神の大能を見きわめようとするならば、あなたは、つまずき、おそれ、そして倒れます。なぜなら、その時、神の恵みから離れており、人間にはあまりにも高く圧倒的な神の大能をそのままあえて見ようとしたからです。キリストから離れては、生まれつきのものは、神の恵みと愛に達することも、認めることもできません。ただ、神の怒りと罪のさばきを受けるのみです。
ヨハネ福音書16−20章の説教