「よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」 ヨハネ8・51
ここでキリストが死と、死を見る、すなわち、味わうこととの間に区別をしておられることに注意しなければなりません。わたしたちはすべて死なねばなりません。しかしキリスト者は、死を味わうことがない、すなわち、見ないのです。彼は死を感じることも、おそれることもなく、ちょうど死なずに眠りにおちいる人のように静かに安らかに死をむかえます。しかし不信心な人は永遠に死を感じ、おそれます。それゆえ死を味わうこととは、死の力と権威とにがにがしさに関係しているのです。
さてこのような違いができるのは、みことばによるのです。キリスト者は、みことばを持ち、死の中にもみことばにしっかりとすがりついております。それゆえ、彼は死を見ることがありません。彼はみことばのうちに生命を見、それゆえ、死を感じないのです。しかし、不信心な人はみことばを持ちません。それゆえ、生命を見ず、死のみを見ます。そして死を感じます。それはにがにがしい永遠の死であるからです。
これこそ、だれでもわたしのことばにすがるものは、たとえ死ぬ時でも、死を見ないし、感じることはないと、キリストが約束された理由です。
こうして、キリスト者がすでに永遠に死からあがなわれ、死ぬことがないということが、どれほど大きなことを意味しているかがわかります。キリスト者の死と死ぬ時のありさまは、不信心な人の死のありさまと外面的には似ておりますが、内面的には天が地と遠いほど違っております。キリスト者にとって死は眠ることであり、死をとおして生命に移ってゆくからです。しかし、不信心な人は生命から移りゆき、永遠に死を感じるのです。
1525年の説教から