キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。 第一ペテロ4・13
病気、貧乏、苦痛などを、十字架ということはできません。その名称に値しないのです。しかしもし、信仰のために迫害を受けるようなことがあれば、十字架と呼ぶにふさわしいでしょう。どのようにしてそれを見いだしますか。それは修道院の中ではなく、福音と、福音の正しい理解のうちに見いだします。あなた自身を知ること、あるいは、十字架を知ること、十字架を認めることです。どこにそれを見いだしますか。あなたの心のうちです。そこに見いださないならば、表面上、十字架を負っていても、なんの役にも立ちません。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。このことばに対して、「わが主、わが神よ、わたしがそれに値するものになれたらと望みます」と言えるところまで到達しなければなりません。聖徒たちと同じように、十字架を喜ばねばなりません。
十字架のほまれは、内的な、心の中のものでなければなりません。すなわち、わたしは苦しまなければならないことを神に感謝するのであり、その感謝は、十字架や死に対する喜びの意志からあふれてくるのです。
あらゆる人々が死をおそれているのに、死に対する喜びの意志を与えられるということは、なんとすばらしいことではないでしょうか。このような状態こそ、きよめられた十字架です。
1527年の説教から