しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 イザヤ53・5
この真理をうけいれ、そこから慰めを得てください。これがあなたがたの益となるためになされたことを、信じましょう。このみことばのうちに、一度ならず、二度ならず、何回も、主が苦しまれたこと、しかも罪なくして苦しまれたことを聞くからです。
では神はなぜこれを許されたのですか。なぜこれを設定し、起こるようにされたのですか。それはあなたがたが慰められるためです。主はご自分のために苦しまれませんでした。主はあなたがたのため、また全世界のために苦しまれたのです。それゆえにこそ、この真理の中には矛盾が満ち満ちているのです。主は神の子であり、完全にきよい罪のないかたでした。それゆえ、死とのろいにはなんの関係もないはずです。これに反して、わたしたちは神ののろいと怒りの下にある罪人です。それゆえ、わたしたちは死と罪のさばきを受けなければなりません。しかし、神はこれを逆転されました。罪なく、恵み以外のなにものもないかたがのろいとなり、懲らしめを受けなければなりませんでした。そしてこの主を通してわたしたちは恵みの状態にいれられ、神の子とされます。それゆえ、わたしたちはこの慰めにしっかりとすがりつき、特に、キリストの無実というこのあかしを尊ばねばなりません。キリストが罪なくして苦しまれたのはわたしたちの罪と罪過のためであったからです。そして、それゆえに、わたしたちは、主の無実を通して、あらゆる罪と悪とに対して慰めを得ることができます。この無実さは、わたしたちが主の苦しみの実を得て喜ぶことができ、わたしたちの信仰深い主、恵み深いあがない主が、わたしたちのために苦しんでくださり、わたしたちの負債を支払ってくださったということの確実で、たしかなあかしだからです。
1545年の説教から